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老子の思想

 老子の思想 “造化の神秘を探る

 あらゆる人間の営みに失望し、人間の自信過剰と傲慢を慨嘆する老子は、そこで、人の行動の規範をむしと天地自然の世界に求めていく。

 人間の作り出した文明も、人間の行使する権力も武力も、大自然の営みに比べれば、まことに取るにも足らぬ小事業である。傲慢な人間は、大自然の前に己の小なることを自覚すべきであろう。大自然から見れば万物の一つにすぎない人間は、さかしらな知恵を捨てて、むしろ謙虚に自然の法則に従うべきではないか。このように考えて老子は、宇宙造化の営みに着目する。
 天地間には一定の秩序がある。日月昼夜の交替、五星の運行、四季寒暖の推移、これらにはすべて恒常的な法則があり、寸分の狂いもない。その間に、万物は次々と生み出され、成長を遂げ、やがて死滅する。しかし、その後にはまた、新しい生命が生み出されていき、造化の音波はしばらくやむこともなくつづけられている。

 こうした天地造化の営みは、いったい何者が、かくあらしめているのであろうか。
これを宗教的にいえば、偉大なる造物主(神)のしわざということになるであろう。しかし、老子は、宇宙間におけるこのような超越者の存在をいっさい認めない。

 老子はそれをおのずからなる営みである、と考えた。つまり、何者かがそのようにしている、あるいはさせているのでではなくて、ひとりでにそうなっているのだ、というのである。
 人の行為には破綻もあり失敗もある。
 ひとりでにそうなるのであって、何者かがなすのではない。はじめから何もしないのであるから、そこには破綻や失敗はありえようがない。しかも、それによって天地間の秩序が保たれ、万物が生成し、化育するということになれば、その営みは、むしろ完全無欠と称すべきであろう。しかも、その営みは、永遠である。

 とすれば、この天地造化の営みこそ、人が規範として仰ぐべきものではないか。
このように考えて老子は、天地造化の営みを、あえて「道」と名付けた。

 老子のいう「道」とは、天地宇宙の奥に潜み、次々と万物を生み出していく「造化のエネルギーである」、とでもいえばもっと分かりやすいであろう。
 この宇宙間に、いったいどのようにして、万物が生み出されてくるのか、その由来するところは誰にも分らない。まさに、「造化の神秘」なのである。その神秘を探る老子は、宇宙の奥に造化のエネルギーの沈むことを想定し、それを「道」と名付けたのである。老子が「道」に見出したものは、まず「永久不変」ということである。
一方、「道」は日々夜々に万物を生み出しているが、それは「ひとりでにそうなる」という働きであって、そこに、ことさらな作為の跡はまったくない。この点から老子は、「道」の営みを「無為」と称した。
 実際には「無作為」ということであるが、あとかたを見せない「道」の働きは、人からすると、何もしていないように見える。そこで老子は、あえてこれを「無為」と称したのである。
 また、「ひとりでにそうなる」という点から、「自然」(自ずと然る)と称した。この場合、「無為」と「自然」とは、同じ状況を観点を変えて言ったまでのことである。
(自然という言葉は、今日では英語のネイチャーに相当する意味で使用することが多いが「老子」に見える「自然」は、つねに「自ずから然る」という意味)

 造化のエネルギーである道は、完全であり、無欠である。老子はこのことを「為さざるは無し」と称した。「無為でありながら、何事も為さぬことはない、つまり、何事も成し遂げてしまう。これが老子のいう「道」の要諦である。
 無為にして而も為さざるは無し、という道の在り方は、同時に人のよるべき規範とされる。つまり、人も「道」を規範として「無為」を持することにより、何事も成し遂げることができる、というのである。
 老子にとって天地自然の道は、そのまま人のふみ行うべき道であった。

中国の人と思想「老子」/楠山春樹(著)(集英社1984)より”

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